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暗号兵「極秘任務」の記憶 学んだ仕組み今も忘れず、大牟田市の男性 - 西日本新聞

 暗号兵-。福岡県大牟田市倉永の高巣信芳さん(92)は、太平洋戦争末期に“極秘任務”に就いていた記憶を淡々と語った。75年たった今でも暗号の仕組みは忘れない。「数字を考えるのは脳トレになる。老化防止にいい」。卒寿を超えても口調は滑らかだった。

 高巣さんは現在の大川市大野島生まれ。1945年1月、16歳で神奈川県横須賀市にあった海軍通信学校に入校し、暗号を学んだ。愛知県豊川市にあった分校にも通い、合わせて半年の間、「来る日も来る日も、閉め切った部屋に暗幕を張り、暗号の仕組みを学んだ」。たまの休みも機密保持のために個人での外出は許されず、集団での外出のみだったという。

 軍上層部が発した命令を電信兵に伝えるため暗号化するのが「作成」。一方、電波を通じ送られてきた暗号を文章にして伝えるのが「翻訳」だ。暗号書には作成用と翻訳用がそれぞれ5冊、計10冊あった。「電話帳ぐらいの厚さで、背の部分に鉛が仕込んであってこれが重くて重くて…」。艦船に積んだまま撃沈されても浮いてこないように、というのが理由だった。空襲で防空壕(ごう)に逃げ込む際も全てを持ち込んだ。

   ◇    ◇

 通信学校を卒業後の同年6月、宮崎県日南市の油津第33突撃隊に配属された。艦船への特攻が目的の人間魚雷「回天」が出撃待ちしていた油津には、宿舎もなく、寺や遊郭の跡を使っていたという。「回天の乗組員はもちろん準備していただろうが、他の兵隊は整備する艦船も航空機もなく、防空壕掘りばかりだった」

 鮮明に覚えているのが8月6日、広島への原爆投下直後のことだ。大本営が発信した暗号を受け翻訳した。「原子爆弾」という単語が暗号になく、「『子』の文字から頭をひねった結果、『親子爆弾? 広島の被害甚大なり』と伝えた」。新型爆弾は高巣さんらにも未知の物だった。

   ◇    ◇

 長崎への原爆投下を伝えた後、上官から暗号書の焼却を命じられた。「暗号を処分するときは最後のとき」と死を覚悟したが、そのまま終戦を迎えた。「暗号兵だったことは隠せと上官に言われた。終戦でもう利用されることもないのに、なぜだったのか…」。今でもふに落ちない。

 だが、自身が考えていた以上に任務は極秘だった。厚生省(現厚生労働省)からその後に送られてきた軍歴書では、油津への配属時期は「不詳」とあった。「機密を扱っていることは自覚していたが、毎日の任務に必死で、その重要さを考えたこともなかった」

 戦後、西日本鉄道に就職し定年まで勤めた。「特に暗号の経験が生きたこともない」。信号機や警報器の点検業務などを続けた。横須賀と豊川、油津時代も含め、手元にある写真は同期らと豊川稲荷(豊川市)で撮った集合写真1枚だけ。「私の宝です」と慈しんだ。 (室中誠司)

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August 14, 2020 at 04:00AM
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